目次
〜特別な体験の先に見えてきた、何気ない日常の豊かさ〜
瞑想を続けていると、ときに、言葉では説明しきれないような不思議な体験が訪れることがあります。
それは、いつも起こるわけではありません。
どれほど深く瞑想しようと思っても、意志の力で起こせるものでもありません。
ただ、あるとき、思いがけず訪れるのです。
今日は、私自身が瞑想の中で経験した、ある印象深い出来事についてお話ししたいと思います。
そして、その体験を通して、あらためて感じた「幸福」についても。
思考が静まり、意識が深く沈んでいく
私たちの頭の中では、普段、絶えず何かしらの思考が動いています。
過去の出来事を思い返したり、これからの予定を考えたり。
ときには、まだ起こってもいないことを心配したり。
けれども、瞑想の中で静かに意識を内側へ向けていると、そうした思考が少しずつ遠のいていくことがあります。
何かを考えようとすることもなく、何かを感じようとすることもなく。
ただ、そこにいる。
やがて、身体の感覚や時間の流れさえも、少しずつ曖昧になっていく。
不思議なのは、意識が深く静まっているのに、決して眠っているわけではないということです。
むしろ、普段よりも澄み渡った、静かで鮮明な意識がある。
そんな感覚でした。
脳内を駆け巡る光、そして上下の感覚が溶けていく
そのとき、突然、脳内を光が駆け巡るような感覚が訪れました。
目を閉じているにもかかわらず、内側で鮮烈な光が動いている。
外から差し込む光ではなく、まるで意識の奥深くから光が生まれ、頭の中を縦横無尽に駆け巡っているようでした。
そして、次第に身体の位置感覚が曖昧になっていきました。
上も下もない。
自分がどちらを向いているのかも、よくわからない。
普段、当たり前のように感じている身体の輪郭が、静かに溶けていくような感覚です。
けれども、そこに恐怖はありませんでした。
身体の感覚が薄れていく一方で、意識は驚くほど鮮明でした。
自分がどこにいるのかという感覚は曖昧なのに、確かに意識はある。
日常ではなかなか経験することのない、不思議な静けさに包まれていました。
ハートから湧き上がる、理由のない幸福
そして、さらに印象深い感覚が訪れました。
胸の奥、ハートの中心から、凄まじいほどの幸福感が湧き上がってきたのです。
それは、何か嬉しい出来事があったときの喜びとは、まったく違うものでした。
誰かに褒められたわけでもない。
何かを手に入れたわけでもない。
願いが叶ったわけでもない。
それなのに、ただ、圧倒的に幸せなのです。
その幸福感は、単なる感情というよりも、強烈な振動として感じられました。
ハートの奥から湧き上がった幸福の振動が、身体全体へと広がっていく。
言葉にすると「喜び」や「幸福」としか表現できないのですが、普段の生活で感じるそれとは、どこか質の異なるものでした。
何かを求める必要がない。
何かが足りないという感覚もない。
ただ、満たされている。
何も起きていないのに、こんなにも幸せでいられる。
そのことが、私にはとても印象的でした。
アルファ波、シータ波、そして覚醒したままの深い静寂
この体験を振り返るとき、私は脳波の変化をひとつのイメージとして思い浮かべます。
日常の思考が静まり、穏やかなアルファ波の世界へ。
さらに意識が深まり、夢と現実の境界が曖昧になるようなシータ波の世界へ。
そして、その先にある、デルタ波を連想させるほどの深い静寂へ。
もちろん、これは実際に脳波を測定した結果ではなく、私自身が経験した意識の変化を、脳波という言葉を借りて表現したものです。
あのとき感じたのは、深く静まっているのに、意識ははっきりと目覚めているという不思議な状態でした。
静寂が深まるほど、意識が鮮明になっていく。
普段の生活では、なかなか出会うことのない感覚です。
ただし、瞑想の体験は、いつも同じように深まるわけではありません。
身体の感覚が少し薄れることもあれば、深い静けさの中で自分という感覚が曖昧になることもあります。
その深さも、感じ方も、その時々で違います。
そして、それらを自分の意志で思いどおりに起こすことはできません。
だからこそ、私は、特定の体験を目指して瞑想することを大切にはしていません。
神秘体験は、遊園地のアトラクションのようなもの
瞑想の中で起こる不思議な体験は、確かに魅力的です。
光を感じたり、身体の境界が曖昧になったり、言葉にならない幸福感に包まれたり。
そんな体験が訪れたら、やはり嬉しいものです。
私は、こうした神秘体験を、遊園地のアトラクションのようなものだと感じています。
普段とは違う世界を体験し、驚いたり、感動したり、楽しんだり。
それはそれで、とても素晴らしいことです。
けれども、遊園地のアトラクションに乗ることが、人生の目的ではないように、神秘体験をすることが瞑想の目的ではないと、私は思っています。
どれほど素晴らしい体験をしても、瞑想が終われば、いつもの日常に戻ってきます。
朝、目覚める。
食事をする。
仕事をする。
人と会い、言葉を交わす。
ときには、思いどおりにならない出来事も起こるでしょう。
私たちが人生の大半を過ごすのは、そうした何気ない日常の中です。
だからこそ、私が大切にしたいのは、特別な体験ができたかどうかではありません。
瞑想から目を開けたあと、どれだけ幸せに日常を生きられるか。
そこにこそ、瞑想の本当の豊かさがあるように感じています。
世界が変わったのではなく、世界を経験する私が変わった
瞑想を続ける中で、私自身、日常の感じ方が以前とは少しずつ変わってきたように思います。
風の心地よさ。
木々の緑。
食べ物の味や香り。
動物たちの何気ない仕草。
誰かと交わす、ささやかな会話。
以前なら何も感じずに通り過ぎていたようなことが、今では心に深く響くことがあります。
また、以前なら不満やストレスを感じていたような出来事に対しても、自分の反応が変わってきたことを感じています。
もちろん、日常から問題がなくなったわけではありません。
人生には、さまざまな出来事が起こります。
けれども、起こった出来事そのものより、それをどのような意識で受け止めているのか。
そこに、大きな違いがあるように感じるのです。
世界が変わったというより、世界を経験している自分の感覚が変わった。
今の私には、この表現がとてもしっくりきます。
そして、私が考える現実創造も、こうした内側の変化と深くつながっています。
外側の現実を何とか変えようとする前に、自分の意識のあり方が変わっていく。
すると、同じ出来事の中にも、これまで気づかなかった豊かさや可能性を見いだせるようになる。
人との関わり方も、日々の選択も、自然と変わっていく。
その積み重ねが、少しずつ自分の生きる現実を変えていくのではないでしょうか。
特別なことが起こらない一日を、幸せに生きる
あの瞑想体験で、私の心に強く残ったのは、光の鮮烈さだけではありません。
何の理由もなく、あれほどの幸福を感じられたということでした。
私たちは、幸せになるために何かを手に入れなければならないと思いがちです。
もっと豊かになれば。
環境が変われば。
問題が解決すれば。
望んでいるものが手に入れば。
もちろん、願いを持ち、より良い人生を目指すことは素晴らしいことです。
けれども、幸せになるための条件を外側にばかり求めていると、いつまでも「まだ足りない何か」を探し続けることになるのかもしれません。
何も特別なことが起こらない一日。
朝の光が心地よく、食事がおいしく、誰かと笑い合える。
そんなありふれた時間を、心から幸せだと感じられること。
それは、決して小さな幸福ではないと思うのです。
むしろ、人生の大半を占める何気ない時間を豊かに感じられることこそ、とても大きな幸せなのではないでしょうか。
特別な体験をするために瞑想するのではなく、特別なことが何も起こらない一日を、心から幸せだと感じられる自分であるために。
今、私はそんなふうに瞑想と向き合っています。
光を感じる日もあれば、何も起こらない日もあります。
深い静寂に包まれる日もあれば、思考が次々と浮かんでくる日もあります。
それでいいのだと思います。
大切なのは、瞑想の中で何が起こったかよりも、その時間が自分の日常にどのようにつながっていくか。
そして、今日という一日を、どんな心で生きていくか。
幸せは、いつかたどり着く遠い場所にだけあるのではなく、今この瞬間にも、静かに息づいているのかもしれません。
そのことに、少しずつ気づいていく。
私にとって、瞑想とは、そんな時間なのです。
アロマ&ヒーリングサロン Neo
日常の中にある小さな幸福を、より深く感じられる自分へ。
